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親鸞会 Nagano Yamanashi

親鸞会 長野・山梨
     
特集
親鸞会 長野・山梨

心の奥底をたずねると……

 毎年8月15日に、天皇も首相も東京の武道館に集まって、開催されるのが、戦没者の合同慰霊祭です。太平洋戦争で亡くなった人をしのび、哀悼の意を捧げる行事として、恒例となっています。

 また、日航機墜落事故や阪神大震災など、多数の死者が出た天災や事故の日には、遺族の方などが集まって、慰霊行事がなされているのは、周知の事実です。犠牲になられた方は大変、お気の毒と思います。

 ここで「慰霊」とは、「霊を慰める」ということです。では、「霊」とは何でしょう。亡くなった妻や夫、親兄弟、子や孫が、死んで無になってしまったとは到底思えない感情が、そこにはあるのでしょう。

「どこかで生きているのではなかろうか。今日にもひょっとして、『ただいまー』と言って帰ってくるような気がする」
とは、肉親を失った人の偽らざる心情と思います。

「草葉のカゲで、見ていてください」とも言います。
親鸞会 長野・山梨「オレが死んだら葬式など、ムダなことは一切やるな。遺体はどこかで焼いて、空からパーッとばらまくか、それも面倒なら川へ流してくれ」
と公言していた人が、不幸にも息子や娘に先だたれたらどうでしょうか。悲しみに打ちひしがれ、失意のうちに葬式を済ませて、遺骨を墓地に納めるでしょう。雪の舞う日、墓へやってきては、墓石に積もった雪を手できれいに払いのけ、持参したミカンやお菓子を供えて手を合わせます。夏の炎天下なら、水をかけ、きれいに磨きながら、さながら生きている人に話しかけるようにもするでしょう。

 にわかに死後の世界を認めるようになったのではなく、そうせずにはおれないのでしょう。ここに、いかんともしがたい感情の人間性があります。

 しかも、「霊を慰める」といいますように、亡くなった人は、暗く寂しい世界へ行っているのでは、と心配なのです。今ごろ極楽ならば、慰める必要がありません。

 葬儀に参列した時にも、
「ご冥福をお祈りします」
とよく言います。「冥福」とは、「冥土の幸福」です。死んだあとの世界(冥土)で、苦しんでいるのではないかと思うからこそ、幸せを願う気持ちになるのではないでしょうか。

「死んだあとなんて、ないよ」
とか、
「死ねば皆、極楽だ、天国だ」
というのは、いかにも軽すぎます。

 全人類の行く先である「後生」がハッキリしないまま、金や財産や地位・名誉を求めて走り回っても、ちょうどそれは、真っ暗闇に目隠しして走っているようなものです。何にぶち当たるか分かりません。

「死んだら死んだ時さ」
と言っているのは、
「ぶつかったら、それはその時さ」と言うに等しいのではないでしょうか。

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浄土真宗 親鸞会 長野・山梨
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